マジックリアルに彷徨って

まじめな軽チャー、まじめに軽チャー

失礼の本質 終わらないマスク社会と言葉のウイルスの感染対策

礼を失うと書いて失礼とは言うが、そもそも礼とは何なのか。「自己に打ち克って礼に復帰することが仁である」と説いた孔子の言葉に倣うならば、礼とは他者を思いやり、己を律するためのものと言える。しかし、失礼論者の考える礼は「わたし」を「みんな」に拡張して、そうすることがさも当然であるかのように語られるものに思える。人や言動に対して「失礼だ」という言葉が使われるときを想像してみればいい。ほとんどの場合、そのメタ・メッセージは「私を不快にさせるな」に収斂している。 また、失礼論者ほど「あなたのためを思って」と語るが、これは「失礼」な「あなた」をダシにいい人ぶっているに過ぎない。マナー講師の高圧的な態度を思い出してみればいい、意図する/しないにせよ、失礼論者の本質とは、偽装された仁でいい人アピールをするその裏で、形骸化した礼で以て、「わたし」を「みんな」へと順化し、統御する/されることにある。

礼の話にばかり終始していたので、失にも目を向けてみよう。失という漢字は手に乀を足したもので「うっかり手からはなす」様を表している。例えば、"Excuse me"の意味で「失礼します」と口にするとき、当たり前だが、本当に失礼してやろうと思っている者はいないだろう。「失礼します」は、うっかり失礼してしまうかもしれないことに対して、事前に保険をかける一言である。失礼の本質とは、この「うっかり」に、つまりは意図せず起こってしまうことにある。だからこそ、失礼な人は自分が失礼だと気づかない。逆説的に考えれば、気づかないからこそ、失礼な人だけが失礼の本質を理解している。

失礼の本質は「うっかり」という偶然性にあると言ったが、笑いの本質もまた偶然性にある。文脈を脱臼させた言葉で意図せず失礼な物言いをしてしまう滝沢カレン齊藤京子、自然体で予定調和をぶった切る(木梨憲武やフワちゃんのように予定調和を壊す予定調和でさえない)黒柳徹子やあのが面白いのもそこに計算が見て取れないからだろう。概して失礼とユーモアは切っても切れない関係にあるわけだが、それは共に硬直した空間に突発的な孔を空けるものであるからだと言える。「空気を読めない」と言ってしまえば悪いことのように思えるが、調和を保つ多数派が常に正しいとは限らない。多数派から見れば空気を読まない失礼な態度こそが、時として常識人の「みんな」が唯々諾々と信じ込んでしまっているその常識のヴェールを穿つこともある。

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こうした失礼の重要性はコロナ禍において上がってきている。ではコロナ禍において失礼な人とは何者か。言うまでもなくそれはマスクを着用しない者だろう。しかしなぜマスクを着用しなければならないのか。マスク着用論者にそう問えば、人にうつさないためと答えるだろうが、本当にそう考えているのであれば、親だろうと恋人だろうと同じ空間にいる場合は常に着けておくべきだし、突き詰めれば戦時下よろしくガスマスクを身につけるのが最善だろう。流石にこれは極論だが、まず基本的なこととして、飛沫の拡散を防ぐ効果はあるが医療用でない市販のマスクではウイルスは通過する、ウレタンや不織布など素材によって効果に差異があるといった情報についてさほど考えられていないのは、マスク着用論者が心から「他人にうつしたくない」と思っているより、「みんな」に配慮しなければならない「新しい生活様式」という言葉のウイルスに感染しているからだろう。

もうお気づきの方もおられようが、この構図は失礼論者と酷似している。マスク着用論者の悲劇は、「マスクを着けろ」という圧力で他者を支配しようとする裏で、その銃口が他でもない自分たちに突きつけられていることにある。彼らは言葉のウイルスのホットスポットに進んで飛び込み、自由を剥奪されに行く愚かな自傷行為に及んでいるわけだが、「わたし」の問題であるはずのマスクの着用を「みんな」に拡大してしまうのは、そうしなければ自分が「みんな」の輪から外れた「失礼」な人間になってしまう恐れがあるからではないか。そんなことに意味がないと薄々気づいているにも関わらず、言葉のウイルスによって「みんな」と同じ病床に縛り付けられたマスク着用論者は心にマスクを着けて口を噤み続けたまま最期の時を迎えるしかない。

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こうした状況で言葉のウイルスに感染しないで済むのがコロナもマスクも眼中に無い「わたし」のことだけを考えて外で遊ぶ失礼な人である。ただここで間違ってはならないのが、反自粛の態度を示すために頻繁に通っているわけでもないであろうゲームセンターに行きますと宣言する赤木智弘や免許センターからの立ち入りを拒否されようが意地でもマスクを着けない外山恒一のように神経症的にはならずに、何も考えず、自らの快楽の赴くままに動く清水はる的なヤンキー性が大切だということだ。言葉のウイルスに対して最強の免疫を持つ者は、反体制のアイロニーに耽るお利口さんではなく無自覚なユーモアを生きるバカなのだから、身も蓋もない結論を言ってしまえば、こんなもの読んでないでApexでもしてればいい。

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P.S.正しいマスクの着用方法です。

純粋な痛みの贈与

貨幣は神である。貨幣が価値を持つのは、誰もがそこに価値があると信じ込んでいるからで、本当はただの紙切れに過ぎない。こうした貨幣のフィクション性は、片面手描きの米ドル札を自作の紙幣であると説明した上で商品の購入に用いようとしたJ.S.G.Boogsや無名だった複製千円札を司法の介入によって芸術にしてしまった赤瀬川原平外国通貨をIDEAL COPYコインと交換し、交換された外国通貨をオブジェとして展示する匿名ユニットIDEAL COPYなどのアーティストがギャグ的に問いかけてきた。とはいえ、現行の経済システムが貨幣を中心として回っている以上、単なる交換の媒介物であれ信仰してしまうのがリアルな現状だが、突き放して見れば所詮は紙切れなのだから、清水はるが千円札で口を拭いたり鼻をかんだりしたように、別にどう弄り回そうと勝手なわけだ。不謹慎系YouTuberが世間の意見に逆張りした程度で非難される言われがないのと同様に、それぐらいの自由はあって然るべきだろう。

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平川克美が言うように、ネットの中での匿名性の言葉は貨幣に似ている。そもそも貨幣とは、商品市場を浮遊する媒介物であって、皆がその価値を信じている空間上では万能性を発揮するが、逆を返せばその空間上でしか交換価値がないのだから、ひとたび外部へと放り出されてしまえば、単なる紙くずへと変わり果てる。これはネットの中の言葉にも同じことが言える。ネット上ではリアルでは決して口に出さないであろう悪辣な言葉が頻繁に飛び交っているが、何がそうさせるのか。全身を覆われた参加者(没個性化条件)の方が自分の服かつ名札つきの参加者(個性化条件)より学習者が間違える度に二倍電気ショックを与えた、心理学者フィリップ・ジンバルドーの有名な実験にもある通り、やはりそれは匿名という自身の身体を持たない状態で発信されるからこそ、言葉の万能性を信じ込んでしまうのだろう。仮想通貨が棚からぼたもちで降りてきた泡銭であるからこそ、単なる電子的なデータに過ぎないNFTアートが異常な高額で取引されているように、匿名性の言葉も攻撃性のインフレーションの中へと沈み込んでいく。しかし、情報空間上を行き来する間は万能性を信じることができたとしても、ひとたびリアルな世界へと生身の姿を晒されれば、そこには何の力もない。勘違いした万能性に任せた言葉では誰も聞く耳を持ってはくれないし、限度を超えた場合は司法に裁かれる。

こうした点から見れば、千円札を紙切れ扱いする清水はると他人の死を祝福する不謹慎な動画で無数のアンチを抱えた坂口章は身体性を欠いた記号(貨幣・匿名コメント)を笑うという点で繋がっている。坂口章が攻撃性のインフレにその身を引き裂かれた悲劇のヒロインとして、大衆やメディアに担がれた木村花を無関心にネタにした意味もここにある。坂口章の特異性は、遠藤チャンネルや安藤チャンネル、ナイス達也にともーれといった不謹慎系YouTuberたちが、逆張りという仕方で評価経済の翼賛的な空気の相対化とアルゴリズムのハックを成し遂げながらも、結局はお金のために動かざるを得なかったことに対し、目先の利益には興味を示さず、アルゴリズムの裏をかこうとすらしないハイテンションな頭の悪さで、匿名でやり取りされる👍👎やアンチコメントを風呂場というリアルな生活空間に引きずり出し、クールに笑い飛ばしたところにあったと言えるだろう。

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ここまで坂口章-清水はるの批評的な結節点を貨幣と匿名性の言葉の類似を軸に探ってきたが、こんな小賢しい分析をしたところで、当の本人は「どうでもいい」と一笑に付して終わりだろう。彼はいちいちそんなこと考えちゃいないし、考える暇もなく行動する天才だからだ。だからこそ尋常なスピードで動画を投稿し続けるし、面白いと思ったものはパクりだろうがすぐに吸収し自分のものにしてしまう。たとえアカウントがBANされようが一切気にしない。ただ次のアカウントで再投稿を始めるだけだ。「見る前に飛べ」を地で行く、今を全力で生きるのが彼の常なのだから、一秒前の自分なんてとうに忘れ去った過去でしかない。

かつて坂口章が上げていた動画にはアンチを煽るものが多々あった。その中の一つに公園でシャドーボクシングに耽る彼が、アンチは生身の俺に会いに来て喧嘩しろと挑発するものがあったが、ふわふわとした匿名のアンチコメントでは満足できない彼は、生々しい痛みを求めてこうした動画を上げたのではないだろうか。彼はYouTuberでありながらもネタキャラには徹しない、生身の身体を捨ててはいないがゆえに、匿名コメントだろうと真剣にブチギレるが、アンチの透明な言葉には血が通っていないため、茶化しや冷笑で煙に巻かれることがほとんどだ。彼の煽り動画は、そうした非対称性を埋めるべく自分の身体を持たない匿名の彼らに訴えかける行動だと考えられる。こうした点から今思い返せば、この動画は自傷系TikToker清水はるの予告編とも見て取れるもので、つまり彼の関心の中心は一貫して自らの快楽≒痛みにあったのではないか。貨幣や匿名性の言葉が纏う虚妄のヴェールを剥がそうとしたことも、結局はそこに尽きる。まず基本的なこととして、身体性が伴わなければ、痛くも気持ち良くもない。そこに喧嘩やコミュニケーションは生まれないからだ。

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辛いラーメンを食べると、口の中や舌がピリピリと痛くなる程の刺激を感じる。そうと分かっていても何度も食べたくなってしまうのは、痛みと共に美味しいという快楽も同時に引き起こされているからだ。ただこれだけだとなぜハマってしまうかの説明にはならない。その答えとしては、痛みを感じる際に痛みを和らげる快楽物質が脳や身体を駆け巡ることで快楽のうねりが起き、美味しいという一次的な快楽も相乗効果で上乗せされる、快楽のパレードが中毒性を生み出していると言える。清水はるが辛いラーメンを好んで食べるのも、痛みを経験することでその差分を補う大きな快楽を呼び込もうとするメカニズムが働いているからで、ガムテープですね毛を引き剥がすような彼の自傷的なパフォーマンスもこうしたSM的な快楽に導かれていると考えられる。妻の不倫や妹の死、おばあちゃんの行方不明、アンチからの手紙攻撃といった精神的苦痛の演出はむろん嘘だろうと思うが、彼の最大の関心が快楽≒痛みの追求にあると考えれば、そう思い込む自分を世界に晒すことで擬似的な痛みを作り出しているのではないかとさえ思えてくる。

痛いことは気持ち良いこと。その地平に立つまでの挑戦と葛藤が坂口章であるならば、清水はるは快楽の実験場と言えるが、なぜ彼はそうした欲望に傾倒することになったのか。その理由は案外ロマンチックなものではないだろうか。ニコ生やTikTokライブでの姿を見ての感想だが、彼は他者との交流を求めているように思える。配信上での彼は、鬱々とした孤独でダメな自分を晒しているかと思えば、フォロワー数を増やしたい少年にアドバイスしてあげる優しいおじさんの顔も覗かせる。動画上での彼はいつもエキセントリックな振る舞いで強がっているが、配信上に映るのは素の自分を晒し他者との対話を求める一人の人間の姿だ。彼が真に求めているのは、貨幣のような嘘に頼らず、顔と名前を晒した生身の身体を通して行われる、痛みや快楽を伴ったコミュニケーションなのではないだろうか。

速度と快楽の動画の世紀、緊張を要請される身体

落語家の桂枝雀は、おかしな状態が普通の状態に戻ったとき遡及的におかしさが生まれる、緊張が緩和する瞬間に笑いが起きるのではないかと、笑いのメカニズムを分析した。これが俗に言う「緊張の緩和理論」で、恐怖を待つホラーや偶然性の面白さ(放送事故)こそが醍醐味でもある生配信などは「緩和の緊張」となるが、多くのメディアはこの「緊張の緩和」に則って構成されている。しかし、テレビや映画以上に掴みのインパクトと飽きさせないことが肝となる動画メディアの時代においては、こうした法則に当てはまらない速度と快楽の笑い、すなわち「緊張の緊張の緊張の緊張の…」といった常に異常事態を要請される演出がメジャー化しつつある。

例えば、ブレイク当初のにゃんこスターは、サビでなわとびを跳ぶのか!?とフリを入れた上で、跳ばずに間の抜けた踊りを披露する落差でウケていたが、TikTokで再ブレイクを果たしたアンゴラ村長は緊張の緩和の文脈から切り離され、なわとびのパフォーマンスや踊りのシュールさそれ自体でバズっている。こうしたネタ受容の変化から分かるように、スピードとキャッチーさが求められる動画の世紀の笑いは、フリオチの流れがある物語的な緊張の緩和ではなく、息つく暇もなくネタを連発しなければならない、絶え間のない緊張が要請される。2020年のM-1グランプリでの、つり革に振り回されるマヂカルラブリーやズレながら歌い続けるおいでやすこがのネタも、ボケが動きを止めず常に緊張を強いられるもので、従来の漫才を逸脱した脱物語性は物議を醸したが、身体性に訴えかける明快なバカバカしさはいかにもTikTok的で、じゅんやが一年でHIKAKINを超えたことも考えると、漫才か否か論争も含めパラダイムの変化を象徴する優勝と準優勝だったと言えるだろう。

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かつてアンディ・ウォーホルは彼の初期の映画で、見ることの意味と無意味を問いかけた。彼の映画は二時間あまりの間ほとんど動かず、どんなに退屈しても見ろ、見ろとひたすら見ることを強制する。本来は動くはずの映画というメディアで、動かないイメージを垂れ流す彼の映画は、見ることを要請することよって、逆説的に見ることの無意味を宣告している。またウォーホルの初期の映画では、食・睡眠・性といった繰り返される日常の営為が対象とされているが、取るに足らない日常を単調な繰り返しの中でクローズ・アップすることで、野性的なイメージのそれらも所詮は機械化≒社会化された人工の産物に過ぎないと暴き立て、人間の生への幻想を打ち砕いている。

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4分間ただ弁当を食べ続けるだけのコントで、芸を見て面白い/つまらないを判断すること自体が滑ってるんだと自ら大滑りすることで、その意味と無意味を問いかける。本来隠されるべきはずのサブリミナル効果を誇張して大きくすることで、広告のフィクション性をバカバカしい形で晒しあげる。誇張し過ぎた〇〇シリーズで対象の特徴を誇張して表現するモノマネという芸そのものを解体してしまう。過剰な演出によって、メディアやキャラクターのフィクション性を表に引きずり出して大笑いする、アイロニーともユーモアともつかない陽気で狂気な破壊性を持つザコシショウもウォーホルに近いところがある。

HIKAKINよりも早くからYouTubeへの動画投稿を開始する情報感度の高さを持つザコシショウは、当然のごとくメディア状況の変化を予見しており、速度と快楽の笑いを本質的なレベルで芸に昇華させている。2秒で笑いをとりたいがために裸で登場し、限られた時間の中にどれだけボケを詰め込むか緻密に計算する彼は、TikTokYouTube的な速度と快楽のマーケティングを地で行く一方で、連続するカタルシスの空虚あるいは空虚なカタルシスを根源的に問いかけてもいる。その極北が「ザコシショウのスーパー無意味動画だから何なんだよ!」で、ここではひたすらペットボトルで自分の頭を殴り続けるザコシショウが高速orスローで再生される。速いのか遅いのか時間の流れすら分からなくなるこのあまりに退屈で面白い、誇張し過ぎたTikTokとでも形容すべき動画は、終わりの見えないループする構成と速度を無為化させる超高低速度によって、視聴者を引きつけるために速度と快楽、常に緊張が求められるYouTubeTikTokの過剰さの意味と無意味、フィクション性を改めて我々に考えさせる。美男美女が変顔やキメ顔で踊り続け、じゅんやが自傷的にリアクションを取ることで世界中から笑いをかっさらう、あまりに単純なバカバカしさをザコシショウはバカバカしい姿のままに「ええやんええやん」と笑う。自傷系TikTokerの清水はるが飲みかけのペットボトルを片手に「これって何が面白いんですかね」とダンス未満のダンスでおどけた見せたように、ザコシショウもまた眠そうな瞳の奥にペシミズムを湛えながら自分の頭を全力で殴り倒すのである。

マゾだって嘘をつく ちょっとオシャレでしょ? 反吐が出るなあ

感傷マゾと死の美学

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感傷マゾの特色を一言で言えば、美学としての敗北主義、ということになると思う。彼らは、彼らの主張の大前提として、青春は美しい、というテーゼをおいた。美しい青春、という意味は、風景の美しさがひとつ、恋愛の美しさがひとつ、思い出の美しさがひとつ、そして、もっとも重要なこととして、あらかじめ失われているからこそ美しい、という考え方がある。

むろん、以上は不健全な倒錯でしかない。『君の名は。』には美しい風景が描かれるが、その舞台となった新宿の橋はゴミにまみれた汚い場所である。『君の名は。』のノスタルジックな感傷は、現実の汚い部分を捨象して成立している。恋愛もそうであり、思い出もそうである。青春は美しい、と語られるときの青春は、メディアによって現実を書き換えられた〈青春〉を指しているのであって、経験する/しない以前にそもそも存在しない。ポカリスエットのCMの中にだけあるセカイである。それを理解したうえでなお、青春は美しい、と、感傷マゾヒストたちが祈りを捧げるのは、暗い未来しか見えない現実に、諦念を抱くしかなかったためか、その奥底から湧き立つ繭のようなナルシシズムに浸るしかなかったためであろう。

あらかじめ失われた〈青春〉を美しいものだという論拠は、メディアにより〈青春〉が固定化されることで理想とのギャップで自己嫌悪に浸れるからだ、というのである。これも倒錯した自己愛であり、安全に痛い自己反省パフォーマンスは、破廉恥だとさえ言わなければならない。

感傷マゾヒストの主張は、失われた〈青春〉とどうしようもなく汚い現実の裂け目こそ美しい、というドグマの上に成り立っていた点において馬鹿げた自己愛の産物というよりないわけであるが、ただ、それが、もはやシラけるしかないがゆえの諦念でしかなかったところに、いささか、憐れを感じさせるものがある。

おニャン子クラブで女子高生という記号の優位性を茶化し、欅坂46に「大人たちに支配されるな」と歌わせるアンビバレント秋元康日本画オタク文化を強引に結びつけ国際アート市場のメタゲームをハックした村上隆、感情が劣化した田吾作のバカさに呆れ果て、挑発的に加速主義へと走った宮台真司は、自らの虚妄を自覚した上で、それでも本気でコミットする審美的な態度がある。彼らのパフォーマンスはくだらないが、それは彼ら自身が最も自覚しているところであるし、その"あえて"に葛藤があるからこそ、露悪的なアイロニーの裏には熱いユーモアがある、という転倒がある。そんな彼らに比して、感傷マゾには徹底したアイロニーしかない。敗北こそを至上の美しさとする感傷マゾのアイロニーは、〈青春〉という竹槍をふるって美しく死ねばよい、という反出生主義とさして変わらぬ、卑しき自己肯定のための滅びのロマンであろう。

ネクライトーキーの「オシャレ大作戦」は、「ちょっとオシャレでしょ?」と自嘲的に嗤う、不幸な僕のエゴと自尊心を描いた傍から、そんな自分を「反吐が出るなあ」と突き放し、最後は「未来が見えぬまま笑うから ちょっとイカれてる夢を見てる」と絶望を希望に読み替える。この曲は一見すると皮肉めいているが、その根底には、朗らかに熱い、古市憲寿的なユーモアが流れている。我々が生きるべきはこうしたユーモアの中であり、ただアイロニーに耽溺するだけの、感傷マゾのような死の美学は断固として唾棄せねばならない。でなければ、この国が再び戦時下に突入したとき、汚い現実を美しく彩った新海誠の翼賛映画に、容易に動員されることであろう。

変態ごっこはもーヤメテ!!

f:id:atomail:20211016224013j:image『バラエティ』1982年3月号より

f:id:atomail:20211017013554j:imageアニメージュ』1982年6月号より

橋本治ロリコンブームの際、ロリコンに走る若者たちは"変態"という共通意識で結ばれたい、安全に痛い変態ごっこに興じているに過ぎないと一喝した。これは『アニメージュ』誌上での、クラリス人気を受けての宮崎駿の発言「ぼくらはあこがれを"遊び"にはしなかった」「"ロリコン"を口で言う男はきらいですね」にも通じている。彼らの呆れと苛立ちの正体とは一体何だったのか。ここで重要なのが、橋本治吾妻ひでおを「自分をそうさせた抑圧をちゃんと自覚しているじゃない」と評していることであろう。

吾妻ひでおロリコンまんがの祖であるが、ロリコンブームに対する批判者の先鋒でもある。吾妻がロリコンをひどく嫌悪したのは、彼の発明したロリコンまんがが抑圧された自意識をギャグに昇華させたものだったからである。最初にして最後のロリコンまんがである吾妻の「純文学シリーズ」は、美少女を愛するがゆえに抑圧された自意識を、インポのオトコのコが美少女にヤリ捨てされる話としてさらりと描いた。こうした情けない話を純文学と名づけることから分かるように、一見アイロニカルに映る吾妻のロリコンまんがは、美少女に触れられないどうしようもなさから来る諧謔であった。だが、吾妻のそうした批評性は、彼のエピゴーネンたちからは理解されなかった。パロディを用いて森羅万象をネタにする内山亜紀が象徴的であるように、その後のロリコンまんがは、相対化と快楽主義に身を委ねていく。そして、内輪の表現空間の中へと籠ったロリコンまんが、ひいては性的コミックは、90年代に入りまんががマンガへと、官制主導の大衆化を遂げる中で、有害コミック騒動として、他者に発見されることになる。

性的コミックが、有害コミック騒動に突き当たったように、このまま行けば感傷マゾも社会とぶつかる可能性がある。そうなればもう内輪の変態ごっこではいられないであろう。しかし、なにも心配することはない。彼らにとっては糾弾さえもマゾとして消費できるのだから、本気の迫害を受けて敗北したとて、それはそれで心地良く死んでゆけるであろうから。

お笑いキャンセルカルチャー

フランシス・フクヤマはキャンセルカルチャーの起源の一つにSNS社会の問題を挙げている。フクヤマによれば、誰もが持っている不愉快な意見を公私の境界線を曖昧にさせるソーシャルメディアのバザール性が表面化させてしまったことで、私的な発言が公的な場と意識されずに放たれてしまう。そうした不用意な発言がSNSの拡散性とアーカイブ性の野合によって発掘されたとき炎上が巻き起こるが、そこまでなら実質的な制裁が加えられたわけではない。SNSという感情の表出装置によって簡単に抗議ができるようになったが直ちに現実的な対処ができるわけではない不満が、社会的な抹殺にまで加熱してしまうキャンセルカルチャーに繋がっているのだ。

橘玲は『無理ゲー社会』でより多くの貨幣を獲得しようとする「資本主義経済」から、より多くの評判を獲得しようとする「評判格差社会」へ移行すると述べている。インターネットやSNSが日常的インフラとなった「評判格差社会」では👍を集められない、セルフプロデュースのできないモテない者は「自分らしく」生きることができない。これからは笑顔で相互監視し合う巨大な伽藍の中でアイドル的にいかにサヴァイヴするかが重要となるのだが、この社会が残酷なのは、いくら評判を高めたところで、ネガティブな評判を減らすため慎重に自己管理に努めなければ、たちどころにキャンセルされてしまうことだろう。最近でも企業が学生の裏垢を特定し、「キモい」「ムカつく」といった投稿をした者の内定を取り消す流れが起きているし、「評判格差社会」は恐ろしいスピードで加速の一途を辿っている。

ただこうした現象はたかだかここ数年の間に起きたもので、日本においてはベッキーのゲス不倫が取り沙汰された2016年がターニングポイントだろう。ベッキー以降、東出昌大渡部建と不倫バッシングの流れは留まるところを知らないが、中には行き過ぎだと擁護される場合もある。その一例が小室哲哉の不倫報道で、マツコ・デラックスは一時代を築いたTKの幕引きという物語を前にして、今まで「消えろ」「許せない」とバッシングしてきた人々も自分たちが抹殺してきた感覚になったのではないかと分析している。不祥事や失言を面白がる心性は誰しも持っているが、そうしたゲスな野次馬根性を忘却し、本当はどうでもいいと思っている問題にまで、ガチな義憤に身を任せてしまうのがキャンセルカルチャーの問題だ。小室哲哉の不倫報道は90年代を象徴するアイコンの引退宣言により行き過ぎたバッシングの加害性とくだらなさを思い出させるものだったが、最低発言?黒歴史?おもしれーじゃんwとネタ化して笑い飛ばすことで、こうした自覚を促しているものがある。それが『チャンスの時間』と『ロンドンハーツ』内で行われたある企画だ。

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『チャンスの時間』はAbemaTVで放送されている千鳥MCの番組で、エロ、酒、ギャンブル、タバコなどゲスい企画が目白押しの深夜番組的なノリが魅力だ。その中で今回取り上げたいのが当番組の目玉企画でもある「ノブの好感度を下げておこう!」だ。この企画はスキャンダルが起きる前にノブの上がり過ぎた好感度を下げておこうという趣旨のもと、ノブの楽屋挨拶に来た後輩芸人や女性タレントに対しスタジオにいる大悟が遠隔でパワハラ・セクハラ満載の失礼な行動を指示していく。

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自粛期間でも「空いてる店あるから」と言わせたり、貰ったCDを即噛みさせたりと、時事ネタも取り入れる大悟の指示は不祥事を起こした著名人がキャンセルされる風潮を笑っているわけだが、この企画が面白いのは、酒タバコ不倫ネタに象徴される破天荒なキャラクターの大悟ではなく、そんな大悟を優しくツッコミを入れて中和していると世間的には思われているノブが操作されているところにある。企画の趣旨にもある通り、ノブは好感度が高い。しかし、大悟が破天荒でノブが常識人という千鳥のパブリックイメージは彼らの番組(特に瞬発力のあるツッコミが求められる『相席食堂』)をよく見ていれば分かることだが実際とは真逆だ。大悟が「天然」「わしよりがさつやし。わしのほうがたぶん常識人やし。」と語っているように、ノブはデリカシーがなく大悟がそのフォローに回ることも少なくない。 

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大悟は『笑いの勇者』で出した名前「糸し 歯の下*1」や『IPOONグランプリ』の「タタタタ タタタ ターター(火サス)で思いやりのあることを言ってあげて下さい」というお題への解答「母母 歯母 歯歯」「父父 歯°父 歯°歯°」などを見れば分かる通り、思いもよらない視点と発想で、言葉を組み替える職人気質の持ち主*2で、ワード自体は単純なのに、メタな角度から切り込みを入れることで視聴者に鮮烈な印象を与える。大悟のボケはこうした言葉への鋭い嗅覚を基底とした上で、あえてベタを重ねて文脈を脱臼させていくもので、初見時のキャラクターから受ける印象とは裏腹な、繊細さがあってこそ成し得る芸当と言えよう。むしろ非常識なのはノブの方で、幅広いボキャブラリーから繰り出されるそのツッコミは、誰もが気づきそうで気づかない本質を「大〇〇」やあえての音読みを用いた"クセがすごい"センテンスで簡潔にまとめる、毒舌キャラ時代の有吉にも通じるコピーライティング的なセンスを光らせる反面、思いついたままをすぐ口に出してしまうタチが、失礼な発言に繋がることも少なくない。

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ノブのツッコミは一般人だろうと容赦なく、巨乳の女子大生に対して「アニメ乳しとるじゃない」、歯抜けのおばあさんに面と向かって「歯がカバの本数!」など、その酷さはマネージャーからも苦言を呈される程である。とはいえノブのノンデリカシーツッコミに失礼ながらも思わず笑ってしまうのは、もちろんワードチョイスの秀逸さもあるが、岡山弁や嘆き調にカバーされている面も大きく、キャラクターに重きを置いているのは大悟よりもむしろノブの方であることが窺える。

『チャンスの時間』の「ノブの好感度を下げておこう!」はキャラクターでカバーされるノブのデリカシーのなさを踏まえた上で、ゲスな本音が垣間見えるうっかりを引き出すことが目的の一つになっており、公式YouTubeでの誤解を招きそうな切り取りも含め、彼らにとってはややリスキーに思えるこの企画も炎上したらそれもまたネタになるというお遊びに過ぎない。高好感度なノブの仮面を相方の大悟が自ら剥がしに行こうとする千鳥の即興コントは評価経済すら遊び場に変えてしまったのだ。

評価経済を笑う「ノブの好感度を下げておこう!」に並んで、キャンセルカルチャーを批評するバラエティ番組の企画がある。それが『ロンドンハーツ』の「自分の良いトコ自分で答えましょう」のかまいたち編だ。「自分の良いトコ自分で答えましょう」は回答者の芸人に対して、彼らの良いところを自ら回答させるもので、千鳥も以前挑戦した企画だが、一つ違いがあるとするならば、かまいたちの場合は過去の雑誌での発言が問題になっている。千鳥も8年前の隠し撮りが出題されていたが、ここで雑誌を持ち出してきたのは明らかに小山田問題を意識しているだろう。ロンハーはクイズ形式で芸人自らに褒めさせて辱める企画にキャンセルカルチャーの流れを取り入れたのだ。

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この企画で特に印象的なのが、過去の雑誌での芸人がコスプレをする企画で、もしも濱家が医師だったらという写真に添えられたインタビューを元に出題された「濱家医師のキャッチフレーズは?」という問題だ。この問題の正解は「医学界の黒船」なのだが、ウケを狙いに行ってるのかもよく分からない解答に本人も含めスタジオは困惑してしまう。こうした困惑の笑いが生まれた状況で、山内は「若手時代のズレたワードセンス吊し上げるのやめてもらっていいですか」と呟くのだが、相方の悲痛なフォローも相まってシュールな笑いは強化される。この一連のやり取りから分かるのが、人の過去を漁ると予想外にくだらないこと言ってて笑えるよねというバカバカしい事実だ。キャンセルカルチャー以前にも2chで著名人の過去の失言が取り沙汰されることはあったが、表面的には怒っているように見えても、それらはただ彼らをバカにするネタだった。かまいたちが挑戦させられた「自分の良いトコ自分で答えましょう」はそうした失言を面白がっていた本来の自分を思い出させてくれる。

「ノブの好感度を下げておこう!」や「自分の良いトコ自分で答えましょう」は評価経済やキャンセルカルチャーを茶化すことで、評判を気にし過ぎて進んで相互監視に走る社会に対し、あんまりガチにならずにゲスな自分を思い出して笑えよと呼びかけている。ゲームの中でふざけながら自爆しに行くことで、ゲームから半分降りるという選択肢を提示するこれらの企画は、偽善的な評価経済の臨界点であるキャンセルカルチャーの虚構性を見破る処方箋として有効に働くだろう。

*1:歯から止を取った下の部分。デジタルでは表現不可能。

*2:言葉遊びでリズムを刻み、連想ゲーム的にボケを転がすZAZYを高く評価する所以もこうしたところにある。

「優しい世界」はやさしくない!

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郡道美玲が「ファシズムいいじゃん」「バーチャルYoutuberなんてすぐに廃れる文化」と教師にあるまじき発言をして猛批判を浴びたことがあったが、彼女に矛先を向ける前に、単細胞のバチャ豚はまず血が出るまで地面に頭をぶつけて反省して欲しい。悪いが彼女の発言は核心を突いていて、実際バチャ豚の間には「ファシズムいいじゃん」な「優しい世界」を求める空気が流れているし、このまま同化と排除を繰り返し、ダラダラと「優しい世界」に耽溺していてはVtuber文化は内側から腐ってゴキブリだらけの肥溜めになる。というか、もうすでにそうなっている。郡道美玲がVtuberの反省なきアイドル性に居直り、「ファシズムいいじゃん」なんて身も蓋もないことを言ってVtuberや視聴者を貶めていることは間違いないし、そもそも彼女はエゴサで批判者を先行ブロックして回る小心者だ。もちろん彼女自体に問題はあるだろう。しかし、郡道美玲の露悪ほど分かりやすくはないにせよ、全てのVtuberは反省なきアイドル性に開き直っていることに自覚的で、そうせざるを得ない悲哀を多かれ少なかれ抱え込んでいる。そしてそうした構造を作り出しているのは他でもない視聴者たちの身勝手な欲望にある。メンタルを病んだ湊あくあや赤井はあとにファンは声援のリプライを送るが、むしろそうしたいいねこそが彼女たちを苦しめている。その程度のことにすら気づけない「てぇてぇ」と鳴くだけの愚かなバチャ豚に郡道美玲を批判する権利は一ミリもない。

「優しい世界」とは宗教嫌いのための宗教だ。橋本治は宗教には二種類があると言う。一つは"社会を維持する宗教"で、もう一つは"個人の内面に語りかける宗教"だ。まず"社会を維持する宗教"だが、政治のことを"まつりごと"と言うように、古代の社会においては重要視されていたが、実力主義者の織田信長が社会を維持するようになってからは無効となった。では"個人の内面に語りかける宗教"の方はどうか。キリスト教鎌倉時代以降の密教の中から生まれた新仏教といった"個人の内面に語りかける宗教"は"個人の救済"を目的としていた。こうした宗教が流行ったのは、世の中が不安定だったからだが、徳川幕府による将軍様を頂点とした"世俗の人間関係"による支配体制が完成し、世の中が安定してからは、こちらも無効になった。

会社=社会の中にいれば、"自分の頭でものを考える"必要はない。ただその社会のルールに従って、世俗の人間関係の中で上手くやればいいからだ。これこそが宗教を怖がらなくなった日本人が辿り着いた独自の信仰体系で、つまり親にしろ上司にしろ政治家にしろ、日本ではあらゆる社会活動において"個人崇拝"が基礎となっている。社会人という言葉が口にされる場合、そのほとんどがイコール会社人を意味しているのは、こうした忠考こそが日本社会の根幹にあるからだ。

橘玲の『(日本人)』は山本七平の『空気の研究』が発見しながらも見落としたもう一つの考察、つまり「空気=世間」ではなく「水=世俗」にこそ日本人の特徴があると看破した。本書のあとがきに、学校や会社を忌避していた自分こそが典型的な日本人だったと書かれているように、日本人は学校や会社といった"場"に人間関係を依存している一方で、いやそうであるがゆえに、国や家族や友人よりも"自分らしさ"を最優先にしたいと考えている。会社に縛られて息苦しさを感じながらも辞めることができない社会人=会社人は、サリンを撒いた教団に疑問を感じつつもどうしたらいいのか分からないオウム信者と同様のジレンマを抱えており、本当のところ彼らは会社=社会をぶち壊して自由になりたいわけだ。『(日本人)』ではこうしたジコチュー性を共同体と共存させる方策として、閉鎖的な伽藍から開放的なバザールへといったユートピアに未来を夢見ていたが、実際のところはどうだったのか。例えばその帰結の一つは評価経済の実現モデルであるオンラインサロンだった。

島田裕巳は実際に潜入した感想として、現在のオンラインサロンは「カリスマの力が弱い、ゆるやかな繋がりのコミュニティである」と結論づけている。例えば西野亮廣のエンタメ研究所は、愚痴という煙を吐き出す煙突だらけの社会を前に、煙に覆われた向こう側にある青空を見ようと、前向きな意見がプロジェクトを活性化させる。そこには会社=社会に対して加害者になりたい願望を持つ人々を集めた共同体を築きながらも、それ自体が麻原という上司を中心とした会社=社会の醜悪なパロディでしかなかったオウム真理教が抱えたルサンチマンはなく「前向き」によってゆるく繋がる中で自分らしさが担保される。もちろん会社=社会に居場所を感じられない人々に「優しい世界」を提供していることは確かだが、ポジ出しによって反社会的な加害者願望は漂白されているから、オウムのようにサリンを撒くことはない。けんすうはオンラインサロンをファンクラブ型、新しい働き方型、情報型、コミュニティ型、物語型の五つに分類しているが、この分類に倣えば西野亮廣のエンタメ研究所は、プロジェクトに携わることで「物語」を体感できる物語型の趣向が最も強く出ていると言えるだろう。エンタメ研究所の参加者のほとんどは、西野を信じてサロンに入るのだから彼に対する個人崇拝を前提にしてはいるが、それ以上に西野が豪語する「ディズニーを超える」という大きな物語の下で繋がっているのだ。

オンラインサロンと同様に、ゲームのルールに則っていいね集めに邁進するVtuberやヒカキンも漂白された「前向き」によって共同体を形成している。これこそが「優しい世界」の正体で、例えばVtuberの炎上の大半は学級裁判レベルの話題でくだらないが、肯定と好きの感情のみで繋がる彼らにしてみれば、小さな嘘や不祥事でさえコミュニティの根幹を揺るがす切実な問題となる。評価経済の盤上で踊らされるヒカキンも過剰に"いいひと"を演じることで「優しい世界」の形成に成功したが、それゆえに"いいひと"を演じることに囚われてしまい、死ぬまで募金を続けなければならなくなっている。対して「前向き」な彼らを嗤うことでポジションを確立しているのがひろゆきだ。彼は「優しい世界」を身も蓋もないことを言って斬り捨てることで人気を集め、「優しい世界」を冷笑したい人のための「優しい世界」を形成しているが、彼もまた論破王というメディアから押し付けられたキャラクターに雁字搦めにされる限界に突き当たっている。

竹熊健太郎が『私とハルマゲドン』で、麻原彰晃は芸人としてサービス精神があり過ぎたために、サリンを撒いてしまったのではないかと書いていたが、本来ニタニタ人間観察するのが趣味のひろゆきが絶対的な答えを出したがるのも、ヒカキンが自粛しろ募金しろと壊れたレコードのように繰り返しているのも、Vtuberが些細なことで炎上してしまうのも「優しい世界」を維持するために、視聴者が求めるキャラクターを演じなければならないからこそで、彼らは金銭的に満たされているのとは逆相関に実質的な幸福度は低いように見受けられる。 

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悪い意味でのアイドル対応に追われる「優しい世界」の運営者と「優しい世界」の中でぬくぬくと搾取される信者の関係は、夢を語るヒモ男とそんな彼に貢いでしまう女の共依存に似ている。ヒカキンは"いいひと"、ひろゆきは論破王、Vtuberはてぇてぇという夢を売っているが、それらは言うまでもなく虚像だ。西野は自分のカリスマキャラがコスプレだと自覚した上でビジネスをやっているので、ストレスマネジメントに長けており、やり方次第では自分で始めた物語を降りることも可能だが、彼らはずっと夢の中、まさに『ビューティフル・ドリーマー』の友引町に生きている。「優しい世界」は表面的には、運営者は金銭と人気を得ることができ、信者は安寧と承認を得られるユートピアに見える。しかし裏を返せば、運営者は終わりのない夢を見せ続けなければならないし、信者はワガママな子供のまま夢から出られない。本当のところ「優しい世界」は優しくなんてなく、そこには互いに真綿で首を締め合う共依存ディストピア、伽藍化したバザールの悪夢が広がっているだけなのだ。