マジックリアルに彷徨って

まじめな軽チャー、まじめに軽チャー

純粋な痛みの贈与

貨幣は神である。貨幣が価値を持つのは、誰もがそこに価値があると信じ込んでいるからで、本当はただの紙切れに過ぎない。こうした貨幣のフィクション性は、片面手描きの米ドル札を自作の紙幣であると説明した上で商品の購入に用いようとしたJ.S.G.Boogsや無名だった複製千円札を司法の介入によって芸術にしてしまった赤瀬川原平外国通貨をIDEAL COPYコインと交換し、交換された外国通貨をオブジェとして展示する匿名ユニットIDEAL COPYなどのアーティストがギャグ的に問いかけてきた。とはいえ、現行の経済システムが貨幣を中心として回っている以上、単なる交換の媒介物であれ信仰してしまうのがリアルな現状だが、突き放して見れば所詮は紙切れなのだから、清水はるが千円札で口を拭いたり鼻をかんだりしたように、別にどう弄り回そうと勝手なわけだ。不謹慎系YouTuberが世間の意見に逆張りした程度で非難される言われがないのと同様に、それぐらいの自由はあって然るべきだろう。

f:id:atomail:20211128154242j:image

平川克美が言うように、ネットの中での匿名性の言葉は貨幣に似ている。そもそも貨幣とは、商品市場を浮遊する媒介物であって、皆がその価値を信じている空間上では万能性を発揮するが、逆を返せばその空間上でしか交換価値がないのだから、ひとたび外部へと放り出されてしまえば、単なる紙くずへと変わり果てる。これはネットの中の言葉にも同じことが言える。ネット上ではリアルでは決して口に出さないであろう悪辣な言葉が頻繁に飛び交っているが、何がそうさせるのか。全身を覆われた参加者(没個性化条件)の方が自分の服かつ名札つきの参加者(個性化条件)より学習者が間違える度に二倍電気ショックを与えた、心理学者フィリップ・ジンバルドーの有名な実験にもある通り、やはりそれは匿名という自身の身体を持たない状態で発信されるからこそ、言葉の万能性を信じ込んでしまうのだろう。仮想通貨が棚からぼたもちで降りてきた泡銭であるからこそ、単なる電子的なデータに過ぎないNFTアートが異常な高額で取引されているように、匿名性の言葉も攻撃性のインフレーションの中へと沈み込んでいく。しかし、情報空間上を行き来する間は万能性を信じることができたとしても、ひとたびリアルな世界へと生身の姿を晒されれば、そこには何の力もない。勘違いした万能性に任せた言葉では誰も聞く耳を持ってはくれないし、限度を超えた場合は司法に裁かれる。

こうした点から見れば、千円札を紙切れ扱いする清水はると他人の死を祝福する不謹慎な動画で無数のアンチを抱えた坂口章は身体性を欠いた記号(貨幣・匿名コメント)を笑うという点で繋がっている。坂口章が攻撃性のインフレにその身を引き裂かれた悲劇のヒロインとして、大衆やメディアに担がれた木村花を無関心にネタにした意味もここにある。坂口章の特異性は、遠藤チャンネルや安藤チャンネル、ナイス達也にともーれといった不謹慎系YouTuberたちが、逆張りという仕方で評価経済の翼賛的な空気の相対化とアルゴリズムのハックを成し遂げながらも、結局はお金のために動かざるを得なかったことに対し、目先の利益には興味を示さず、アルゴリズムの裏をかこうとすらしないハイテンションな頭の悪さで、匿名でやり取りされる👍👎やアンチコメントを風呂場というリアルな生活空間に引きずり出し、クールに笑い飛ばしたところにあったと言えるだろう。

f:id:atomail:20211129032957p:image

ここまで坂口章-清水はるの批評的な結節点を貨幣と匿名性の言葉の類似を軸に探ってきたが、こんな小賢しい分析をしたところで、当の本人は「どうでもいい」と一笑に付して終わりだろう。彼はいちいちそんなこと考えちゃいないし、考える暇もなく行動する天才だからだ。だからこそ尋常なスピードで動画を投稿し続けるし、面白いと思ったものはパクりだろうがすぐに吸収し自分のものにしてしまう。たとえアカウントがBANされようが一切気にしない。ただ次のアカウントで再投稿を始めるだけだ。「見る前に飛べ」を地で行く、今を全力で生きるのが彼の常なのだから、一秒前の自分なんてとうに忘れ去った過去でしかない。

かつて坂口章が上げていた動画にはアンチを煽るものが多々あった。その中の一つに公園でシャドーボクシングに耽る彼が、アンチは生身の俺に会いに来て喧嘩しろと挑発するものがあったが、ふわふわとした匿名のアンチコメントでは満足できない彼は、生々しい痛みを求めてこうした動画を上げたのではないだろうか。彼はYouTuberでありながらもネタキャラには徹しない、生身の身体を捨ててはいないがゆえに、匿名コメントだろうと真剣にブチギレるが、アンチの透明な言葉には血が通っていないため、茶化しや冷笑で煙に巻かれることがほとんどだ。彼の煽り動画は、そうした非対称性を埋めるべく自分の身体を持たない匿名の彼らに訴えかける行動だと考えられる。こうした点から今思い返せば、この動画は自傷系TikToker清水はるの予告編とも見て取れるもので、つまり彼の関心の中心は一貫して自らの快楽≒痛みにあったのではないか。貨幣や匿名性の言葉が纏う虚妄のヴェールを剥がそうとしたことも、結局はそこに尽きる。まず基本的なこととして、身体性が伴わなければ、痛くも気持ち良くもない。そこに喧嘩やコミュニケーションは生まれないからだ。

f:id:atomail:20211129021934j:image

辛いラーメンを食べると、口の中や舌がピリピリと痛くなる程の刺激を感じる。そうと分かっていても何度も食べたくなってしまうのは、痛みと共に美味しいという快楽も同時に引き起こされているからだ。ただこれだけだとなぜハマってしまうかの説明にはならない。その答えとしては、痛みを感じる際に痛みを和らげる快楽物質が脳や身体を駆け巡ることで快楽のうねりが起き、美味しいという一次的な快楽も相乗効果で上乗せされる、快楽のパレードが中毒性を生み出していると言える。清水はるが辛いラーメンを好んで食べるのも、痛みを経験することでその差分を補う大きな快楽を呼び込もうとするメカニズムが働いているからで、ガムテープですね毛を引き剥がすような彼の自傷的なパフォーマンスもこうしたSM的な快楽に導かれていると考えられる。妻の不倫や妹の死、おばあちゃんの行方不明、アンチからの手紙攻撃といった精神的苦痛の演出はむろん嘘だろうと思うが、彼の最大の関心が快楽≒痛みの追求にあると考えれば、そう思い込む自分を世界に晒すことで擬似的な痛みを作り出しているのではないかとさえ思えてくる。

痛いことは気持ち良いこと。その地平に立つまでの挑戦と葛藤が坂口章であるならば、清水はるは快楽の実験場と言えるが、なぜ彼はそうした欲望に傾倒することになったのか。その理由は案外ロマンチックなものではないだろうか。ニコ生やTikTokライブでの姿を見ての感想だが、彼は他者との交流を求めているように思える。配信上での彼は、鬱々とした孤独でダメな自分を晒しているかと思えば、フォロワー数を増やしたい少年にアドバイスしてあげる優しいおじさんの顔も覗かせる。動画上での彼はいつもエキセントリックな振る舞いで強がっているが、配信上に映るのは素の自分を晒し他者との対話を求める一人の人間の姿だ。彼が真に求めているのは、貨幣のような嘘に頼らず、顔と名前を晒した生身の身体を通して行われる、痛みや快楽を伴ったコミュニケーションなのではないだろうか。